八塔寺の春 |
2月2日(木)に母が急遽入院することになり
それからは日曜のライドは単独が多くなりました。
走りに行って夕方、母が入院している病院へ寄って
それからだるま珈琲で寛いで終わる・・・
というパターンです。
仲間とガンガン乗る事から遠ざかって
単独で黙々と乗る・・・
それは、どこか仲間から後れを取っているような
そんな心の隙間がありました。
この日は、短時間で少しでも強度のあるライドをしようと思い
目的地に八塔寺を選びました。
この八塔寺に辿り着くには
走りごたえのある坂を上らなければならないからです。
特に県道から八塔寺までの4kmは長く感じます。
私は一人黙々と上りながら
2年前の春
母を八塔寺へ連れ出したことを思い出していました。
しきりに幼い頃を懐かしむ母に
高松の姉と協力して
恐らくは母が幼かった時代の景色と似ているはずの
茅葺屋根の家々が残る八塔寺を訪れたのです。
その時、私は自分が自転車に乗っている姿を母に見てもらうため
母は姉の車に乗せて
私はロードバイクでやってきました。
集落を見渡せる場所から
母は七十数年前にタイムスリップしたのです。
傷みが進んでる・・・」
八塔寺に残る茅葺の集落は
ほんの2年前と比べても明らかに寂れていました。
壁が崩れているならまだしも
屋根が落ちて崩壊してしまっている家もありました。
無理もありません。
次の時代に引き継ぐ人がいなければ
屋根を直したところで無駄になってしまうからでしょう。
そんな家々の中で
私は民俗資料館として残されている家に向かいました。
私にとっても懐かしいものなのです。
四十数年前の夏・・・
当時、私の家には車がありませんでした。
ですから母の実家の岡山県作東町竹田へは
遠回りになっても姫新線で向かわなければなりませんでした。
幼い私には家族全員の大旅行に思えたものです。
確か・・・
美作土居の駅ではホームの無い場所で降ろされて
線路伝いに歩いた記憶があります。
そこから、どうやって竹田に向かったかは記憶にありません。
当時、母の実家はU字溝ではない自然石の用水路のそばにあり
その用水路にはドジョウやタニシが沢山生息していたのを覚えています。
そうそう、木製の大きなタライがあって
それに井戸の水を汲んで水浴びをさせられていました。
「みやのか」(どんな字を書くのかわかりません)にある
お祖父ちゃんの畑は見晴らしが良くて
甘い大きなスイカをつくっていました。
夕食の後、五右衛門風呂に入った後は
蚊帳をつって寝床をつくりました。
蚊帳の中で、おじいちゃんが怖い話をしてくれたのを覚えています。
内容は狐に化かされる話なんですけど
集落内の実在の土地の様子を交え
人が狂ってゆく恐ろしさを語っていたので
物凄くリアルで怖かったです。
そんな時代も今は昔・・・
茅葺屋根の家なんて今は絶滅危惧種です。
古いものがいいという訳ではないのですが
古いものが失われてゆく過程を見るのは寂しいですね。
二年前はしっかりしていた屋根の尾垂(おだれ・・・庇の方言)は崩れ
中には茅葺屋根本体が崩落しているものもある・・・
私には痛々しくて写真に撮ることが出来なかった程です。
自分にとって大切なものであっても
いつまでも残っていてほしいと思っても
時の流れには逆らう事は出来ないのです。
実は2月の2日に入院した母が
3月27日に退院する事になりました。
こんなにも長い入院になろうとは思ってもみませんでした。
それでも退院できるほどに回復したことに安堵しております。
八塔寺からの帰り道
集落の入口に桃の花が咲いていました。
しっかりと移ろっていました。
今回は母の退院をブログにてご報告させていただきました。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。
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